民間救急 開業 どんな仕事

事業

民間救急とは

このキマグレブログでは、私が患者搬送事業を開業して15年経つ経験や挫折、人と人との出会いなどを書いて行く内容になります。最後までお付き合い頂けたら嬉しいです。

また、今後、開業を考えてる方の参考に少しでもなれば嬉しいです。

っそく、当時の民間救急は、認知度が低い、低すぎる。
この車両は、転院や治療の為に別の病院に外来受診したり気分転換の外出など、様々な要望に応える車だ。基本、全介助の患者さんが多い。私自身も、開業前は、上記のこんな内容の問い合わせがメインになるだろうと考えていたわけだが、開業から15年経つ今だからこそ思う事が沢山ある。

ご家族との出会いがあり、悲しみ、必死に回復を願い頑張ってる家族がいる。その家族の気持ちに、微力ながら搬送という形で、本当に力になって来れてたのかそれは、今後もずっと考えて行かなければいけない事だと思う。

営業に奮闘 挫折の中、一筋の光

開業認可に3か月を要した。ホームページやパンフレットの作成、車両の仮装など順調に進んでいた。やはり1番気になったのは、営業に行かなくては認知されないという事だ。実際、事業をスタートしたもののホームページからの問い合わせは皆無だったのもあり病院に足を運んだ。民間救急ですと声を掛けるも、「民間救急ですか・・・」どんな車なんでしょうか?こんな有様だったのは、今でも記憶に残っている。あまり認知されてない事に焦りも感じた。

東京都内を中心に営業に奮闘した。ある渋谷の病院だ。初めて相談室の応接間に通され1時間以上か、民間救急の話を聞いてくれた。私の民間救急を大きく変えてくれた出会いだった。

その方は、今は、退職されてしまったそうだが、現在も存続できているのは、あの方との出会いだと、これからもその感謝の気持ちは忘れる事はないだろう。

最初のうちはお情けで病院も3か月程度仕事をくれる事も多い。しかし、これは、自信を無くしていく流れでもある。突然、電話が無くなる。
病院も多くの業者との繋がりがある、営業も多いだろう。何か搬送業者として特色を付けなければ、何の売りにもならない。ここは、介護タクシーと民間救急でハッキリ差をつけなければ仕事は無いと感じた。

俺は、暇つぶし程度でやっているわけじゃない。
とにかく、儲かってる儲かってる言う業者とは付き合うのはやめたほうがいい。なんの設備も無くリフトをレンタルして儲かるならみんな参入して裕福になってるわって思う。

増える患者搬送,様々な出会い

開業して半年が経った頃は、なんとか事業は継続していた。この半年を乗り切れたのは、渋谷の病院のおかげだ。渋谷の病院から仕事を頂いていている間、とにかく営業に回った。いつ、問い合わせが無くなるか不安もあり、現状の民間救急という仕事量も把握してなかっ為だ。

10月、渋谷の病院から電話がなった。内容を聞くと、お兄さんが付き添いで旅行に行きたい患者さんがいるとの事だ。場所は、伊豆の一泊旅行。このような問い合わせもあるのかと、対応に焦ったが、患者さんにとって最高の旅行にしたいと強く思った。
患者さんのお兄さんは、革ジャンでワイルドだった。
打ち合わせが終わり凄く妹さん思いなのが、こちらにも伝わってくる。

1泊旅行 伊豆へ出発

出かけないと損するような天気だ。
看護師さんに見送られ予定通り病院を出発した。急変や不測の事態にそなえ病院との連絡方法は、しっかり打ち合わせた。あまり、マイナスな事ばかり考えず、私も一緒に楽しむことにした。
立ち寄りなどは、本人に負担は掛かるが車いすに乗ってもらう事になっている。その方が小回りもきいて動きやすい。首都高速、東名高速、小田原厚木道路と順調に進めていく。道路と道路のジョイントの揺れが心地いいとTさんは話している。
伊豆の道の駅に到着した。昼時のせいかかなり混雑していたが本人は凄く楽しそうだ。車いすで人込みをかき分け、レストランに向かった。同行しているお兄さんも安心している感じが見てとれる。

昼食も終わり旅が進み、車内では看護師との会話で笑い声が聞こえてくる。ルームミラーで覗くと、Tさんは、小さな体で大きなジェスチャーをしてアワビが食べたいとしきりに訴えている。その姿が子供っぽく、その場を盛り上げていた。
ハンドルを握り、その時の旅行をTさんやお兄さんがどんな気持ちで旅をしていたのか・・・
私の考える事ではないが、どうしても考えてしまっている自分がいた。

海岸沿いの稲取の宿に到着した。都心とは変わり、風が強く潮風が車に入り込んでくる。
Tさんとお兄さん、看護師は同じ宿に。急変の事を考えれば当然と言えば当然だ。
私は、少し外れた宿だったが一人ゆっくり過ごせた。
夜の緊急連絡もなく、気持ちのいい朝を迎えた。潮風が心地よく、青空が広がり朝日が眩しかった。
旅行も終盤となってくると、何か寂しさを感じる。
初日に比べ帰りの道中は、会話が減った。そんな気がしてならなかった!
アワビが食べれたのかTさんに聞いたところ、期待外れだったとの事だ。1番楽しみにしていアワビが残念だったとは、返す言葉もなかった。弟に宿の予約なんかさせるんじゃなかったと・・・
無事に病院に到着し病室に移動した。1泊2日の旅行、アワビは残念だったけど、充実した旅行ができたと言ってくれた。この旅行をきっかけに、その後、千葉や栃木、長野、様々な旅行に同行させてもらった。
一つ一つ、旅行の思いも違い凄く感慨深い旅行多かった。
これも民間救急ならではの仕事なんだと、今後も問い合わせがあれば対応して行きたいと思う。

事故での転院 家族の思いと・・・さみしさ 

転院の予約となり、東京から石川県に向かった。出発して1時間くらいか、関越道の練馬ICを過ぎ家族と看護師の会話が聞こえて来た。
10代の息子さんが誤って川に転落し、心肺停止で通りすがりの人に発見されたらしい。ただ、本人が自ら落ちたのか、誤って落ちたのかは意識が戻らないからわからないとしかし目撃者がいたらしい・・・目撃者の話だと大荒れの激流の川に自ら飛び込んだのが見えたらしい。もし自ら川に飛び込んだのなら、母親には思い当たる事は何もないと。学生だった為、学校でイジメなど精神的に追い詰められた状況だったのか、こらえていた感情が一気に噴き出し涙ながらその状況を看護師に話している。
運転席で話を聞いていたが、母親も看護師に【一緒に泣いてくれるだけで気持ちが楽になります】そんな言葉を聞いた俺は、自分に置き換えてしまい目頭があつくなった。歳を重ねると涙もろくなってしまって仕方がない。助手席に誰もいなくて良かったと思った。
人工呼吸器を装着しての転院だったせいか、石川県まで道中ハンドルを握る握力が強く少し疲れていた。長かった道中、何事もなく病院に到着し引継ぎをした。私たちも息子さんの回復を心から願っていると心の中でささやいた。きっと、母親も自ら飛び込んだ息子さんの本当の気持ちを、聞きたいと思ってる違いない。

その後、立て続けに似たような搬送が入った。
六本木の歩道橋から、交差点の真ん中にすごい高さから落下したらしい。
信じられない話だが、背負っていたリュックがクッションになり命が助かったと。

その後、沖縄に搬送となった。


沖縄まで搬送

搭乗までの流れ

羽田空港に到着した。航空会社のスタッフとの打ち合わせ通り制限区域内に入り無事に搭乗。
なぜか、少し旅行気分な気持ちもあり少し嬉しかった。

実は、私は少し飛行機が苦手で離陸の瞬間心臓がバクバクして来る。少しパニック的なものを持ってしまっているのかもしれない。そう考えると何度か急に胸が苦しくなって過呼吸みたいになったことがあった。まあ、私は医者じゃないので、あまり自己判断で決めつけるのも良くないから考えないようにしている
同じような症状がある方がいたら、是非、話を聞いてみたい。日々、どのように対応してるのか気になるところではある。

コメント

タイトルとURLをコピーしました